忌部神社(山川町山崎) (場所はコチラ1・コチラ2)
●忌部神社(いんべじんじゃ・いむべじんじゃ)の始まり。
神武天皇の時代に忌部氏が天富命に率いられて阿波国に派遣され、
そこで祖神として天日鷲命を祀ったのに始まりと伝えられております。
●忌部一族について
ケガレを忌み、神事などに奉仕する。
古来より宮廷祭祀における祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた一族。
祭具製造事業のひとつである玉造りは古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。
祖先はアメノフトダマノミコト(天太玉命)であり、その子孫は後に斎部(または讃部)を名乗る。
斎部氏(または讃部)は中臣氏と勢力を争ったが、あまり振るわず次第に衰退していったとの事。
ちなみに氏族は各地多数に及んでいる。(九州・紀伊半島・四国・房総半島など。)
・阿波忌部氏・・・・・・阿波国にて天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする。
・讃岐忌部氏・・・・・・讃岐国にて手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする。
・紀伊忌部氏・・・・・・紀伊国にて彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする。
・玉作氏 ・・・・・・出雲国にて櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖とする。
・筑紫国・伊勢国の忌部氏・・・・ 天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖とする。
・北陸(越前国)、 山陰(出雲国、隠岐国)、山陽(備前国)などにも忌部氏はいるが、
前者の氏族とは同族かどうか未だ明言はしがたい。
「古語拾遺」によると、上の4神(天日鷲命・手置帆負命・彦狭知命・櫛明玉命)は、
天太玉命に従う四柱の神である。
また、四国の阿波と房総半島の安房が何れも「あわ」と読むのは、
忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。
他にもあちこちに忌部(斎部・伊部)といった名前が出てくるので、少し書き足しておく。
@竹取物語流布本にかぐや姫の名付け親を「みむろとのいんべのあきた」(三室戸の斎部の秋田)。
竹取の翁の名を「さぬきのみやつこ」とあるのを、この氏族と結びつけ、
作者を忌部氏の人とする説や、讃岐忌部と作者の関係を指摘する説がある。
A織田氏(豪族・華族)は劔神社の神官である越前忌部(斎部)氏の支流
(あるいは越前藤原氏とも)であるが、後に桓武平氏の系統と仮冒した。
B長徳4年(998年)3月21日、藤原行成の「権記」に越前劒大神宮神主「伊部守忠」という名前が見える。
C四国の阿波、房総の安房に限らず地名に関する事も多く、
員弁(いなべ)など三重県や奈良県にも同氏から付けられた地名を残している。
姓ははじめ首(おびと)だったが、天武天皇9年(680年)1月8日に、連(むらじ)の姓を与えられた。
天武天皇13年(684年)12月2日に他の連姓の50氏とともに宿禰(すくね)になった。
『日本逸史』によると、延暦22年(803年)3月に「忌部」から「斎部」に改めた。
正六位上「斎部宿祢浜成」の願出によるという。
浜成の伝記は伝わってないが、『古語拾遺』の選者「斎部広成」と同一人物という説もある。
●天太玉命について
岩戸隠れの際、
オモイカネ(思金神・常世思金神・思兼神・思金神・常世思金神・思兼神・八意思兼神・八意思金神)が考えた、
アマテラス(天照大神・天照太神・天照大御神・天照皇大神・皇大御神・天照坐皇大御神)を
岩戸から出すための策で良いかどうかを占うため、
アメノコヤネ(天児屋命・天児屋根命・春日権現)とともに太占(ふとまに)を行った。
そして、勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ち、
アマテラスが岩戸から顔をのぞかせると、アメノコヤネとともにその前に鏡を差し出した。
孫降臨の際には、
ニニギ(瓊瓊杵尊・天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命・天邇岐志・国邇岐志・天日高日子・
天饒石国鐃石天津彦火瓊瓊杵尊、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵)に従って
天降るよう命じられ、五伴緒の一人として随伴した。
日本書紀の一書では、
アメノコヤネと共にアマテラスを祀る神殿(伊勢神宮)の守護神になるよう命じられたとも書かれている。
※五伴緒・・・イシコリドメ・アメノコヤネ・フトダマ・アメノウズメ・タマノオヤ
●忌部神社の所在について
延喜式神名帳では「阿波国麻殖郡 忌部神社」と記載され、名神大社に列している。
しかし、
中世以降、兵火により所在が不明であったため、
近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張するようになりました。
明治4年(1815年)忌部神社は「所在地不明」のまま国幣中社に列格されたが、
国学者小杉榲邨の考証により、
明治7年(1874年)、この場所(麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町山崎)の忌部神社が、
式内・忌部神社の後裔であるとされた。
これに対して
美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の御所神社が
式内・忌部神社の後裔であるとする意見が出され、激しい論争となった。
延喜式神名帳に記載される忌部神社の所在地は麻殖郡であるが、
西端山側は、『阿陽記』などの地誌によれば、
西端山は延喜式の時代には麻殖郡であり、後に美馬郡になったとしている。
結局、小杉榲邨の考証は却下され、明治14年(1881年)五所神社が式内・忌部神社と決定された。
しかし、これに山崎側が反発したため、太政官は妥協策として
徳島市内に新たな社地を定めるという通達を出した。
明治18年(1885年)眉山中腹の現在地が社地に定められ、
それに隣接する郷社・金刀比羅神社に仮遷座した。
明治25年、社殿竣工により現在地(徳島県徳島市二軒屋町2丁目)に遷座し、
五所神社は忌部神社の境外摂社と定められた。
※ウィキペディアより抜粋。(2008/09/15)
ということで、この神社の呼び名を、
忌部神社(山川町山崎)と呼ぶことにします。
さて、ここには奥にも遺跡?があるらしいが、
まず、鳥居をくぐってから進んでみようと、下に車を置いて歩いてみました。
おいおい、今にも崩れそうだよ・・・
でも、風情?があって、こういった階段も有りかなと思う。
着いた・・・
なんだろう・・早朝ってのもありましたが、寂しいですね・・・
【御祭神】
天日鷲命(あめのひわしのみこと)
さて、この神社の奥に聖天寺がある。さらにその先に今回の目的地でもある、磐座が鎮座するのだが・・・
うぅ・・・読めない・・・
まぁ、気を取り直して磐座へGO
黒岩遺跡(磐座?かな)
たぶんコレが磐座だと思うのだが・・・
遺跡・・・って書いてありましたね。
この場所のどこかが磐座だと思うのだが・・・
磐座なら、ここが昔の忌部神社の跡地となるわけだ・・・
なんかもう、ぼうぼうだよ!!
で、最後に真立石なるものを紹介しよう。
手書きってのがいいよね。
で、実際の真立石はコレだ!!
忌部の真立石鳥居の様である片方は土中に埋もれていたものを有志の方が再建したそうです。