大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)  (場所はコチラ



四国にはココ以外にも、大麻比古神社はありますが、
何故、私がココを選んだかと言うと・・・

まぁ、最後まで見てください。







まず、大麻比古神社の入口に看板がありましたので、
コチラを見てください。




結構広い神社です。

目的は・・・左中断の丸山稲荷社の下なんですけどね。

順をおって説明いたします。




境内に入ると「どか〜〜ん」と御神木が立ってます。





見事な御神木です。
これを見るだけでも一見の価値アリです。




で、そのまま進んでいくと拝殿と本殿があるわけですが





【御祭神】
・大麻比古大神
・猿田彦大神


◆大麻比古大神 = 天太玉命
 太古の昔、阿波国を開拓した阿波の忌部氏(いんべし)の大祖先の神様です。
 神武天皇の時代に忌部氏の子孫が阿波国に入り国土を開拓し、
 麻や楮(かじ)から、布とか木綿をつくり産業の基を開いて人々の福利を進められました。

 国土開発の事業がひと段落したあと、
 御先祖の神様である、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を奉ったそうです。
 この神社が今、徳島市に忌部神社としてまつられており、
 この神様の御神徳をたたえて、麻植の神と申して敬ってきました。

 天日鷲命の大先祖神の天太玉命(あめのふとたまのみこと)を、
 大麻比古神社と呼び、郷土の守り神としてこの地におまつりしたのが大麻比古神社とのこと。
 


◆猿田彦大神
 天孫降臨(てんそんこうりん)の時に、その道案内役をした神様。
 昔、大麻比古神社の裏にある大麻山(おおあさやま)の峯にお鎮まりになっていましたが、
 いつのからか大麻比古神社に合わせ、まつられたと伝えられているそうです。

 猿田彦の神様は非常に親しみやすい神様で、
 祭りの神輿(みこし)の先頭に立って天狗の姿で、神輿の先導をされていたり、
 災難や禍をもたらすものを、退けてくださる神様だそうです。
 

以上を読んでふと思いだしたのが・・・

猿田彦は確か道祖神とかの元になった神様で、
いわゆる国津神のひとりであったと思われる。
怪異な容貌の神と言われているが、それが事実なのでしょうか?
天津神がその後に支配した際に、国津神は悉く悪者にされましたからねぇ・・・
ちなみに天狗の姿ということは・・・
ただ思うに、天津神は海外や宇宙?から来た神であると思われ、
それが外人(ユダヤ人)だとすれば、天狗=ユダヤ人=天津神ってことになり、
猿田彦(土着神、国津神)が天狗の格好をしているのは、
敗北?によって、あとから天津神によって、イメージが変えられたからかな?

天狗=ユダヤ人については、『剣山』のページで。


あと、この神社も神武天皇の時代なんですね。
四国はよくよくこの時代の神様が多く祭られてますね。

絶対、天津神支配である今の日本の成り立ちに何か関係すると思うのですが・・・


そのほかに、本殿の後ろに祭られているのが以下の社になります。


・豊受社(豊受大神)



・山上社(大山祇神)



・中宮社








でだ、・・・目的の丸山稲荷社へGO♪



・丸山神社(丸山神)



・丸山稲荷社






で・・・その下に何があるかというと・・・




実は、
とあるホームページで見たんだが!!

ここは卑弥呼の墓らしい!?


え???


とお思いの方もいるでしょう、




ハイ、私もそう思います。











違うでしょう!!


でも、わかりません。

実際、四国に邪馬台国があったという説も結構信憑性がありますしね。

ともすれば、卑弥呼の墓があったとしてもおかしくないです。

◆魏志倭人伝には、
 倭国に至るには、
 帯方郡が出発点だとすれば、船で韓国を経て7,000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に到着する。
 そこから海を1,000余里渡り、対馬国に着く。
 瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると一大国(一支国)に至る。
 また海を1,000余里渡ると末盧国に至る。
 東南へ500里陸行すると伊都国に到着する。
 東南へ100里進むと奴国に至る。東へ100里行くと不弥国に至る。
 南へ水行20日で投馬国に至る。南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
 帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。
 ※1里=約400メートル


と、ある。
まっとうに計算すれば太平洋上になるそうです。(ムー大陸か?)
途中から方向を少し変えると四国に着くとか・・・



はたして、邪馬台国はいずこに・・・卑弥呼は実在したのか??

前にTVで、ジョー・マクモニーグルの透視で邪馬台国は山口に!?っていうのもあったな・・・
まったく手がかりは無かったそうですが・・・













で、最後におまけを。
ここには悲しいお話もあります。

第1次世界大戦時、ここにはドイツ人捕虜の収容所があったそうです。
その技術を生かしてこのような物をつくったそうです。